KONISHIのコーポレートミッションである、「明日を、動かす。」
この言葉に想いを乗せて、コニシ産業株式会社 代表取締役社長の本保敏広が、各業界の有識者と対談を行う「本保のアンテナ」。本保とゲストとの対話から、お互いの価値観や、これからどんな未来(明日)を作っていきたいのかといった前向きなメッセージを、読者の皆さんにも発信していきます。
第2回目となる今回のゲストは、新卒でコニシ産業に入社し、現在は株式会社 日本万年筆製造所 代表取締役社長の山本 郁さん。昔のコニシ産業を知る山本社長と本保の対談からどんなストーリーが生まれるか……ぜひご覧ください。
コニシ産業への新卒入社は、面接に遅刻したことからはじまった
本保:山本さんは、株式会社 日本万年筆製造所の代表取締役社長を勤めております。経営者になったのは、たしか2011年頃でしたよね。
山本 郁さん(以下、山本):東日本大震災が起きてすぐの頃でした。親戚から経営を引継ぐ形で代表になりましたので、今年で10年目になりますね(取材時2021年10月)。事業としてはモノづくりの製造がメインで、筆記具、文房具関係の部品を中心に試作から金型製作、大量生産まで幅広く手がけています。他にはコニシ産業さんを通じて電子部品関係も取り扱っています。
本保:山本社長は以前コニシ産業で働いていて、そのご縁で今も一緒に仕事をしています。コニシ産業を退社された当時の話も聞いてよろしいでしょうか?
山本:あれは、2000年頃ですね。「将来、日本万年筆製造所の後を継がないか」と話があったのです。新橋に本社があったコニシ産業でスーツを着るサラリーマン生活を辞めて、群馬の工場で作業着になって働くことに当初は迷いましたし、決断した後もかなりのカルチャーショックを受けたのを覚えています。まず、仕事で使う言葉が全然違うし、最初に配属になった部署では、作業で爪が真っ黒になり、作業着も油で汚れるような皆が嫌がる仕事もありました。夏は毎日汗だくになる職場環境も相まって体重は10キロくらい痩せて……といった現場を経験し、経理、生産部門、営業、そして現在では経営を担うようになりました。
本保:何もかもが変わったのですね。山本さんがコニシ産業に在籍していたとき、私はまだいなかったのですが、山本さんはどうしてコニシ産業を選んだのですか?
山本:私は団塊ジュニア世代で、新卒の頃は就職氷河期と呼ばれていました。たくさんの会社の入社試験を受けて何社も落ちて、やっとの想いで最終面接に残った中の1社であったコニシ産業に入社しました。理由は、採用通知が一番早かったことと営業職で採用だったこと、あとは、コニシ産業が拾ってくれたといいますか……恥ずかしい話ですが私のミスにも寛大な対応をしていただいたのが大きかったのです。
本保:というと?
山本:当時は今のように携帯電話がない時代です。面接の時間の連絡は、家に電話でかかってきたのですが、たまたま妹が電話を出て面接時間を聞き違えてしまったのです。私は妹から聞いた時間に余裕を持ってコニシ産業に伺ったら「あれ、何時からの面接と聞いていますか?」と言われてしまって。とても動揺してしまったのですが、担当の方が「本人に伝えるべきところを家族に伝えてしまい申し訳なかった、当方の配慮が足りなかったので、これから時間をとって面接をする」と言ってくれて、なんていい会社だと思ったのを今でも覚えています。
本保:山本さんの人柄あってのことですね。本来なら異例中の異例だと思いますよ(笑)。
山本:本当に(笑)。和んだ形で面接をさせてもらって「是非採用したい」と言われました。私の中では、このエピソードがコニシ産業に入る強い決め手になったのです。
しつこく、めげずに、あきらめないという企業文化
本保:実際に入社してみて、当時のコニシ産業はどんな会社でしたか?
山本:昭和の香りが残っていましたが、諸先輩方がとても可愛がってくれる会社でしたね。私の仕事人生は新卒で入ったコニシ産業が全てのベースになっているので、社会人の基礎をみっちり教わり、当時はそこまで意識していませんでしたが、今となってはとても感謝しています。
あと、当時のことでまず覚えているのが新入社員研修で、本社ビルの1階に入っていたローソンに1ヶ月の間店員として入ったことです。朝は通勤客で混み合い、昼も大賑わいの店で、接客対応から商品の在庫確認、発注なども行いました。面白い研修だなと感じましたよ。
そこから現場に配属になったのですが、当時は働き方改革や残業規制がないので今と比較するとかなり遅くまで働いていて、営業の現場から戻って会社で見積もりを準備して、そこから職場の仲間と新橋で一杯飲んで帰るようなことが多かったですね。仕事はハードでしたが、そういうのも含めてとても楽しかったです。
本保:私が入社したときにはローソン研修はなくなっていて、ガラッと変わって京都のお寺で修行をしたり山に登ったりと、個々人が自分自身の精神を鍛えるような研修を経験しました。私が代表になってからは、2泊3日のキャンプ研修を行ったりゴルフの対抗戦になり、チーム力を鍛える内容へとだいぶ変化しましね。それでも、みんなで飲みにいくカルチャーは今も変わらずあります。
山本:先輩から「今、どこそこにいるから来い」という連絡があったりと、当時は体育会系というか、先輩に対する上下関係も強かったですが、今は少し時代が違いますかね。
本保:今も体育会系の良さはなくなってはいないかもしれませんが、昔の体育会系と一緒かというと一緒ではないと思います。先輩後輩の規律はありますが、声がかけにくいというのはたぶんないだろうし、幹部クラスも山本さんと同じくらいの年齢層で、話をわかってくれる人たちです。仕事も夜遅くまで残って働くといったこともほとんどなくなりましたね。
山本さんは、コニシ産業在籍当時のお客様との付き合いはどんな感じでしたか?
山本:最初は先輩から引き継いだ企業を担当していました。固定のメイン顧客があったわけではなく、20社程を担当し、遠方のところは車や電車を使ったりして動き回っていました。今でも強く印象に残っているのは、ある会社の責任者的な方です。納期の遅れが続いていて「担当を変えてほしい」という厳しいお言葉をいただいた企業です。後日謝りに行ったところ、「今度一緒に飲まないか」と誘われて、3軒くらいはしごして飲んで「厳しく叱ったけどよくやってくれた」と言われたのです。私自身、お客様に謝罪し頭を下げたのが初めてだったのですが、それからも注文をいただきましたし、1人の人間としても良い関係性を築けたことは嬉しかったですね。
本保:ミスをした際は落ち込んだと思いますが、なぜ心が折れずに何度もトライできたのでしょうか?
山本:一言で言うと、あきらめるのが嫌だったのです。何で私はその人に嫌われてしまっているのかという自己分析から、何とかできないか、どうしたら上手くやっていけるのかと考えた結果、真摯に何度も通った方がいいと思ったのです。若かったというのもあるかもしれないし、当時いた先輩方が温かかったので話をよく聞いてくれたからというのも大きかったですね。相談する人がいなければもっと早く違う理由で辞めていたかもしれません。
そして、このお客様との経験は今にも活きていて、大変なことがあっても、あきらめず続ければ大丈夫と思えるようになりました。
本保:コニシ産業が大事にしている、あきらめない、しつこい、こだわり続けるというところは今も昔も変わらないんだなと話を聞いていて感じました。あきらめないで続けていると、どこかで潮の変わり目があります。例えばミス続きでも、やめたいと思ってもめげずに続けていると、次第に成功体験に変わっていくという文化が昔からあったのかもしれません。
山本:コニシ産業にはしつこく、めげずに、あきらめないという文化がありましたね。その気質が脈々と今も受け継がれているのかもしれません。
不安を乗り越え、経営者を続けられた理由
本保:山本さんが経営者になってからのことも聴きたいと思います。まず、代表を引き継ぐ決断をした際に後押しとなるようなことはあったのでしょうか? 私も同じように代替わりの社長なので知りたかったことです。
山本:それが実はあれよあれよと話がきて、もう少し大きいことをしてみたいと思ったから引き受けたのです。「引き継いで欲しい」と言われた部分が非常に強いのですが、巡り合わせだと感じましたね。
生意気かもしれませんが、社長をやって欲しいと言われるチャンスはなかなかないので、「やってみる」と返事をしたのです。
それと、先代は親戚だったことも大きかったですね。子供の頃の夏休みは工場に遊びに行ったり、実際に作っているペンをもらったこともあったので、当時まさか自分がそこで働くとは思ってもみなかったのですが、気づけばその場が用意されていました。それなら、引き受けるべきだなと思いました。
本保:そのとき、不安はあったのでしょうか?
山本:もちろんありました。コニシ産業から転職して、最初の頃は作業着を着て仕事した時点で「これは失敗したかな」と思いました(笑)。自分が異業種に挑戦することも、働く土地が変わることもそうですし、経営者の経験ももちろんないので、誰を真似して目標にしたらいいのかもわからず不安は大きかったです。
現在は48歳になりましたが、社長になったのは30代後半だったので、周りも若い社長で大丈夫かという目で見ていたと思います。でも、実際に代表を引き継いだ時からスイッチが入り、今に至っています。
本保:なかなかこんなお話を聞く機会がなかったので、とても貴重だと感じています。山本社長との出会いは、私が社長になるかならないかの時に開催した「感謝の集い」だったかなと思いますが、コニシ産業とはその前からずっとご縁が続いていますよね。
山本:そうですね。退職してからも腐れ縁で、かれこれ20数年付き合っていると思います。在籍していた当時は製造業を外から見ていましたが、今は逆に製造会社の中に入るという経験を通じて、対極的な視点で物事を考えられるようになりました。田舎の町工場にはなかなかそういう視点を持っている人がいないので、コニシ産業での経験はとても活きています。
働く上で2人が大切にしている価値観とは
本保:山本さんが働く上で大切にしている価値観はありますか?
山本:先ほども少し触れましたが、あきらめないことですね。また、それ以上に、こうありたい、こうできたらいいなと想像をすることを大事にしています。良い想像をしていると、少しづつ行動に出るので、思ったところに自然と近づいていきます。例えばコニシ産業さんと一緒に、こういう仕事をして売上を増やしていきたいなと想像していくと、次第に体がそうなるように動いていくのです。
本保:とてもわかります。今回、私は「出会った人たちの想いをのせて、明日を動かす。」という企業のミッションを作りました。この“出会った人”というのをとても大事にしていて、今までだと社会貢献といった大きなことを対象にしていたのですが、まずはお会いした目の前の方々がどういう人なのかを想像し貢献していくことを大事にしたいと思っているのです。
例えば、山本社長の会社の商品を預かって、ある部品のユニットに組むことができれば大きな売上に貢献ができるなど、出会ったことのある身近にいる方々の想いややりたいことを受け止め、どんなことが私たちにできるか想像することを大事にしています。商社はやれることに限りがないのです。その代わり、関わって貢献したいと思ったからには逃げられませんが(笑)。
企業として生き残る覚悟を持って、事業や組織を改革していく
本保:最後に山本さんの今後のビジョンをお聞きしたいです。
山本:これから先の未来を語る前に、今を話したいと思います。コロナ禍という全く想像しないことが全世界で起きたことで、まずは企業としてしっかり生き抜いていくという覚悟を新たにしました。これは東日本大震災が起きたときもそうでしたが、社員の生活や家族を守ることがまずは大事なことです。企業として存在し、これからも10年、20年と生き残っていく上で、基本的なことですが目の前のことをしっかりやることが大事です。
その上で、コロナ禍といった平常時ではないときこそ、温めていた技術を活用したり、新しい機械を導入し老朽化した工場を建て直したりと、未来を見据えたチャレンジもやりたいと思っています。加えて、世の中が落ち着いて景気が戻ったときに働き方を改革していないと乗り遅れる危機感も同時に持っています。
本保:私も同じ考えですね。コロナ禍の大変なときでも、指一本ひっかかって生き残っていれば最後は競争優位性も発揮できますし、コロナ禍の今は、事業や組織の改革がしやすい時期だと考えています。
同時にコニシ産業としては、今まで出会った人たちに感謝していきたいとも思っています。この対談は今回がまだ2回目ですが、私たちはこういう出会いを大切にしていると宣言したようなものなのです。山本社長や日本万年筆製造所の商品をどれだけ世に広められるかを考えていきたい。それを、約束事にしたいなと考えています。
山本:私のような小さい規模の会社は発信能力は乏しいのが課題なのでとても嬉しいことです。同時に、私自身もコニシ産業に在籍していたので、電子部品を扱ったり、海外への事業展開を考えたりと、もっといろいろなことができるのではないかと思っています。
本保:私たちも今はOA事業の柱ですが、それ以外の柱も増やすための新規事業を積極的に考えています。そのタイミングで日本万年筆製造所の技術が活かせるものが必ず出てくると思っていますし、今までと全然違う分野でつながれるのも私たちの夢ですね。
山本:ありがとうございます。こんな関係性は他にないので、今後も継続していきたいです。会社を辞めてから20数年後、コニシ産業の代表になった本保さんと、こうして本日対談できるなんて想像もしていなかったことですから(笑)。
本保:一緒に働いていた仲間は同じような匂いがするので、コニシ産業を辞めた後も仕事することがあります。全員そうなるかというとそうではないのですが、結果的に山本さんとはそうなっているのが面白いところですね。今後ともよろしくお願い致します。